ヅカ式宝塚鑑賞日記

小並感千本ノック

くどくどとまっつBJのこと書きますね

2013年を振り返って、ってフレーズが聞かれるようになってきたけど、なんだかまだまっつBJこと『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』に亡霊のように心を囚われているので、そのことを書きます。

好きなところ全部書き出してみようとしたんだけど、結局あの作品全体が好きだったんだなって気がつきました。
まっつBJに限らず、私にとって正塚先生作品が全般的にそうで、脚本がああだとか展開がどうだとか実は結構二の次で、照明・装置・音楽で作られる、作品全体の雰囲気・カッコよさが好きなのでしょうがないのだ。しょうがないです! 好きです!!

に、しても、まっつBJから気持ちが離れなすぎ。
なんかもうここまで来ると、評価してるとか好きとかじゃなくて、執着だと思うんだけど、しょうがないです。

もちろん、生で観た正塚先生作品の中で、まっつBJがいちばん回数多く観てるってのもあるだろうし、未涼亜希さんが主演だったってのもあるんだろうけど、作品全体に抱かれるあの感覚、あの親密さは、他の作品じゃ当分味わえないのではないかな、という気がする。

アート好きの友だちで、ちょっとエキセントリックな言葉を選ぶ子が「作品の作者とセックスしたいとは思わないけど、作品そのものとセックスしたいなってときはある」って言ってたことがあって、当時私はその感覚はよくわかんなかったんだけど、ひょっとしたら私がまっつBJで感じたのは、それに近かったのかもしれない。

DCに入ったとき、薄暗くてちょっと涼しくて静謐で、なんだか宗教建築のようだな、と感じた。
鉄格子みたいな舞台装置のグロテスクさがゴシックっぽく感じたのかもしれないし、BGMのせいもあったのかもしれない。
スカした言い方をしてしまうけど、あれが私にとっての棺で、母胎だったのかもしれない。
DCには『逆転裁判3』で既に訪れていたし、その後『南太平洋』でも行ったけど、そう感じたのはまっつBJのときだけだった。

正塚先生の「DC観」も関わっているように思う。
正塚先生ご自身は『ブエノスアイレスの風』が初めてDCを使った公演だったらしいのだけど、
「劇場に入るときに地下に降りていく。だからパーッとしたアウトドアっぽいものが広がってたら気持ち悪いだろう」
みたいに考えて、薄暗い雰囲気が似合う土地、ということで、ブエノスアイレスを舞台に選ばれたらしい。
スカイステージの『演出家列伝』で仰っていました。

青年館も遠征したけど、DCで観た回の方が印象に残っているなぁ。
あの作品であの劇場で、という組み合わせが、自分の中でガッチリ来すぎているのかもしれない。

カンパニーも素晴らしかったですよね……。
未涼亜希さんはもちろんのこと、芝居巧者の面々で……。
ものすごく引き込まれたもんなぁ。

小劇場で感じる正塚先生作品の魅力のひとつって、たぶんその「引き込まれる感じ」、親密感とか一体感なのだろうな、と思う。
私が正塚先生を意識しだした月組全国ツアー『愛するには短すぎる』で感じたのもそれだった。

余談だけど、大劇場だと遠すぎて、それが失われてしまうんだろうなぁ。
『ルパン』は午前午後のダブル観劇して、ソワレ一部寝かけたんだけど(すみません!!!)、DVDで観たら、記憶の中より面白くって好みで、びっくりした。
カメラは近くに寄ってくれるからね。近くで観るべきものなんだと思う。

まっつBJに話を戻しますね。
DVD化されないのはかえすがえすも残念だけど、その代わりに青年館千秋楽が、早い時期にスカイステージで放送されたのは嬉しかった。
私は青年館千秋楽には行けなかったので、こんな凄いことになってたんですね、と驚いた。

BJが「降りて」きてましたね。憑依してた。男だった。
あまりの凄みに、
「この人このままどうにかなっちゃうんじゃないだろうか」
って不安になって、怖くて泣きそうになった。

「演じる」って、凄い行為なんですね。
正塚先生の演出の理想は「役を自分だと思う」「台詞が台詞であることを忘れて、自分の心から出る言葉として言う」ってのらしいので、イタコとかシャーマンとか、そういったものに近いんだと思う。
あんなに現代的な演出なのに、そんな土着宗教的な印象を受けるのも不思議な感じだけど、そこが良いんだろうなぁ。

胎内のような墓場のような劇場で、ものすごい熱量のエネルギーのぶつかり合いを見せられて巻き込まれて、この空間でこの演目に浸り続けたいと思って、思い続けて今に至っております。
魂が2013年2月のDCから還ってきません。
この状態から連れ出してくれるような作品を、望んでいるような、いないような。
ここまで思える作品に出逢えた2013年は、幸せな年でありました。
おしまい。