ヅカ式宝塚鑑賞日記

小並感千本ノック

雪組『星逢一夜』

とても美しい夢を見ていたような、それがとても美しかったことを思い出しているような気分になる作品だった。

私は『翼ある人々』オープニングでいきなり泣くという経験があって、今回もオープニングから涙腺に来かけた。
久美子先生の舞台は『月雲の皇子』『翼ある人々』どちらも舞台空間の隅々まで凛とした空気がきっちりと収まっているような美しさがあって、それは大劇場デビューの今作でも失われていなかった。
静謐で清廉。
ハコの大小を問わず、空間を演出する力のある人なんだな……と思った。
ふだん猫背のおじさんの作品ばかり観ている私は、少々居ずまいを正さないと、観てはいけない気持ちになってしまう。

物語そのものはシンプルなのも、久美子先生の演出の技量だと思う。
脚本に過不足が無くて、物語の世界に集中できる。
これもまた、初の1幕ものである今作でも失われていなかった。
むしろ、1幕という時間の制限ができたことで、より鋭利に作品が推敲され、ストーリーがより力強さと鮮やかさを増したのではないかと思うくらい。

新旧の舞台芸術への造詣の深さを感じさせる演出には、セリ・盆・銀橋という武器が加わり、スピード感やダイナミックさを増したように感じた。
大道具の使い方の見事さは、イケコの下で身につけたものだろうか。
少年時代の主人公たちが盆のふちに生やした草を飛び越えて、急いでいる様を表現したところには震えた。

ストーリーがシンプルな分、脚本や演者の演技の妙が際立つ。
新鮮な魚介をサッと刺身にしたような印象を受けた。
ちぎみゆだいもんの、装飾を必要としない演技力の厚みを、最も的確な形で示して見せたように思う。

天真爛漫さと苦悩感という、両極端の要素を見せられるちぎちゃん。
情念を演じられる女優、みゆ。
底知れぬ暖かみと哀しいまでの聡明さを背負えるだいもん。
作品の題材は久美子先生の中で何年も温めていたものだそうだけど、ふさわしい演者を得たとき、ここぞとばかりに最高のタイミングで、最高の題材を出してこられる知性も、久美子先生の強さだと思う。

雪組公演を観るのは久しぶりなのだけど、みゆの武器のひとつである声が、さらに深く、さらにまっすぐ澄んでいて驚いた。
どこまで高みに上りつめていくんだろう……というそら恐ろしさが彼女にはある。
そしてまた、30歳を過ぎてからの、灰色の地味な着物が却って際立たせる輝き、眩しさたるや。
あんな「大人の女」を演じられる女優になっていたなんて、知らなかった。
あゆっちは「大人の女」の中に「少女」の顔を覗かせるのがとても上手かったけれど、みゆは「少女」の頃から「大人の女」の哀しさ、業のようなものを見せられる人だと思う。

だいもん演じる源太は20歳くらいの、泉と結婚するぜってときの登場シーンでのカッコよさ、頼もしさに既に
「うわー結婚したい!! むりー!!!」
ってなったんだけど、30歳くらいのシーンではさらに苦悩溢れる大人の男の色気をまとってしまい、
「うぅ……素敵……つらいです……」
と客席でのたうちまわっていた。

源太が晴興に「泉をもらってくれ」って懇願するシーンが一番泣けたのだよなぁ。
苦しいほど泉を愛して、泉を見つめて、泉を見守ってきた年月が(脚本上は描かれていないにもかかわらず)あのくだりに凝縮されていて。
そして、あの場面は三人の「道」が明確に離れてしまったことを、三人全員が思い知る場面でもあるんだよなぁ。

「これが私の道なのか」
と、晴興が鈴虫に問う台詞が、とても印象深く耳に残っている。
江戸の言葉を身につけて九州弁を話さなくなり、あれだけ愛した夜空を見上げることもなくなってしまった晴興。

晴興は、星で言ったら彗星なのだろうな。
惑星間に一時的に近づくけれど、軌道が異なるので結局は離れていく。
何年かして戻ってはくるけれど、惑星たちの状況は前とは変わっている……。

果たして、惑星たちと彗星との出逢いは不幸だったのだろうか。
幸も不幸もなく、それが天の決まりだと受け容れるべきなのだろうか。
泉が夜空を見上げて思うことは、果たして。

実のところ、私は今作ではあまり泣かなかった。
晴興の「軸」になるものがわからなくて、感情移入できなかったというのが原因としてあると思う。
しかし、彗星だと考えれば、少し尾を掴めそうな気がしてきた。
彗星自身は、哀しいのだろうか。
その軌道もまた、天の定めと受け容れられるのだろうか。

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